絡まれる②

①の続き。次の日。

数時間前のことなのに、被害妄想がリアルな質感を伴って記憶を侵してくる。

 

何もなかったといえば、無かった。

 

朝同僚の子にはしゃいで挨拶をして、私とは目も合わなかった。

だるそうにインターネットを見ていた。ひとりでデスクに向かっているときに貧乏ゆすりをしたり、背中を丸めて歩いていくのが気にかかった。布団屋が持ってきたチラシをこちらには渡さないかと思ったけど普通に渡してきた。

来客があったとこちらに向かってきて違ったと言って引き返して行った。

午後からは信頼できる先輩と話して少し気分が戻ったのか、夕方にははしゃいだ様子も見られた。

これが私が見た彼女の1日である。実に健全である。普通に仕事には支障がないのかもしれない。恐ろしいことに、昨日のあれが私の聞き間違いだということもありうる。

 

私はといえば、がたがたであった。

朝はいつもより20分も早く着いて、彼女と鉢合わせたくなくてちょっとした作業を手早く済ませた。

彼女ではない別の同僚に話しかけられて、激しく動揺する、声が震えるし言葉が出てこない。不自然だ。正直、恐怖でしかない。

全ての行動において彼女とぶつからないように細心の注意を払う。1回コピー機前で鉢合わせた。彼女はすごい速さでむんずと自分の印刷物を持ち去っていった。体が固まる。

心臓はずっとざわざわしてるし、話しかけられるとどんな言葉を発するべきか分からなくなってしまう。相手の出方を伺うのは疲れる。仕掛ける方は自分のペースだけど、仕掛けられる方は全部突然だから。心の準備を手放せない。

 

定時になって彼女らが帰るまでの時間をトイレで潰し、自席に戻る。もういないことに安堵する。これは戦争だ。

何も無かったはずなのに、頭の中に彼女たちのひそひそ話する姿と、あの人今日はすいませんって言ってたよ…とくすくす嗤う声が聞こえてくる…。

 

私は彼女たちにどうされるのか。

彼女は疲れているのだ。たぶんきっと。

最初から私の妄想であれば、私が疲れているだけなのだが。

馬鹿にして嗤うことで何か気が晴れるなら、なるべく付き合おうか。私はただ何も聞かず何も見ずに息を殺してやり過ごすだけだが。

若さゆえの一過性の過ちなのか、本質的にそうで私は下らないおもちゃにすぎないのか。

結局何もできないだけだ。する気も起きない。

ああ、全部妄想ならいいのに。

妄想だと言い切れないし、現実とも言い切れない。

 

恐怖だけが本物だ。

平穏がまやかしであることに気付かされ、しばらくは戻れない。

いつ起こるともしれぬ襲撃、次の瞬間敵になるかもしれない同僚たち、それはオセロのコマをひっくり返すように簡単に。

そんなことでおもしろいくらい臆病になる。

日々の積み重ねの脆弱さを実感する。

いや、日々の怠惰の積み重ねが引き起こしているのか。

一瞬誰も信じられなくなる。不信感のかたまりで震えていても仕事にならないから、十分に距離を図って必要最低限の言葉だけ発する。本当は誰も彼も信じたくない。私が信じるに値する人間ではないから、一つの綻びで全部が容易に瓦解する。信じて裏切られたら恨んでしまう。恨んだら終わりだ、負の感情に呑み込まれてどこかへ運び去られてしまう。自分を保つために、自分以外を信じないことだ。戦場では何でも起こる。だから、信じなければ大丈夫。

 

ちょっと油断していたのだ。

話しかけても大丈夫だとなぜだか思ってしまったのだ。人間関係は私の手に負えないほど難しいのに。

人恋しかったのかもしれない。毎日お祭りみたいな怒号の飛び交う現場での毎日が、急に無くなったから。もうないのだ。無性に寂しかった。

新しく作り直してきた半年だった。まだこれからも作っていく。仕事が済んでいけばそれでいいと、割り切っていける。お金をもらいに仕事に行けばいい。

 

そんなことは何度だってあった。

その度に言葉を失って呑み込んで混乱しながらまた這いつくばって静かに進んできたのだ。

妄想でも現実でも、恐怖はもう破裂したから恐怖のある日常を生きていく。どうだって、生きていかないといけないんだから仕方がない。