岡本太郎『日本の伝統』

読了したよー。

岡本太郎は革命家だなあと思う。最近まで生きてたんだよなあ、生きてる時に浴びてみたかったな岡本太郎節。著書がいっぱい残っているのがありがたい。

章毎にぼちぼちと概要と感想を述べてみる。

 

一 伝統とは創造である

教養がなくても、直に触れて湧き上がるものがあればそれは芸術だ。過去のものがどうであるかよりも、現在を生きる我々がそれらを糧にできるかどうか、が重大事なのだ。

なるほど。

 

二 縄文土器

狩猟に生きた縄文人の空間感覚は、農耕民族のそれよりも優れている。また狩猟の生活と宗教・呪術は切り離せない関係にある。食うか食われるかの世界で、侵し侵される存在を神と崇めて祈り、祀り、殺め、食す。

縄文土器弥生土器の違いは、そのまま生活文化の違いなんだなあ。これ歴史でやったら絶対楽しいのにね。生々しくてわくわくする。人間の感覚として「分かる」気がする。

 

三 光琳

新興ブルジョワジーの現実主義と、貴族的抽象性の対立…難しいこと言う。新興ブルジョワジーにも貴族にもなったことないから分かんないや。この章は私にはまだ早いようです。

尾形光琳「紅白梅流水の図」は確か、多分MOA美術館で観たような気がする。よく観るような屏風絵とは違って、なんだこれ!?と思った覚えはある。梅綺麗だねーってノリじゃないなみたいな。日本画の屏風ってわりあい薄くてはかなくて大人しいイメージを持ってるので、破壊力は感じたけど、当時はなんだこれ!?で終了した気がするな。

 

四 中世の庭

1なぜ庭園を取り上げるか

古い庭の持つ魔力。現代を生きる意識を投げ捨て、昔の夢に安心して寄り掛かってしまうような仕掛けが施された、一種の舞台であるところの庭。

庭の趣味的な魔力に取り込まれずに、庭を感じるための注意喚起というのか。映画館に入る時に映画を見るというムードに呑まれる感じと似てるって書いてあった。納得。

 

2銀砂灘の謎

銀閣寺の銀砂灘というユニークな表現に迫る。

一方向からの鑑賞にしか耐えない庭が名園にもままあるという批評があり、その点大原三千院の苔むしたお庭はすごくよかったなと思い出した。

 

3借景の庭

「借景」、虚実の対比、人工と自然の緊張が、無性格な二つの風景を芸術にする。

うちの庭も借景できるかなー庭見てみよ。なんでもない素材が並べ方、組み合わせ方でものすごい輝くっていうのがおもしろい。さっきEテレの「自由研究55」で、プラカップとビー玉、絵具と洗濯ノリでボールペンを再現してたんだけど、あんな感触かしらと思った。ピタゴラスイッチとかね。

物の本来の来歴を辿るよりも、むりやり神秘を見出すよりも、目に見えるものを正しく認識して受け止めるのが芸術の見方だと。石は石として観るのだと。率直で好きだなあ。

 

4反自然の技術

日本の庭は、高く繊細な技術を誇るのに、根本の自然観が揺らいでいるから感動に欠ける。自然をそのまま再現しようとしても、矮小になり、魅力が消えてしまう。人の心を震わせる芸術に至るには、ポイントを押さえて再構築できるかどうかが重要だ。

竜安寺の石庭は観に行った覚えがある。庭の章で何度でも取り上げられてるので感触を思い返してみたけど、たしかに、縁側に立った瞬間に一種の別世界に飲み込まれる。岡本太郎はそれを「虚」と呼んでいる。私はやはり虚に圧倒されて、なにもない庭をぼうっと眺めていた。なにもないんだよな、なにも分からない、石の意味も分からない。居心地がよいものだと思った記憶はある。虚に圧倒されて、いつまでもぼーっとしていられる空間だった。私の個人的な思い出。

あれはあれでよきものだと思うけど、太郎さん的には虚の先が必要らしい。つまり作者が庭に向け、観る人を震わせる意志とか意図とか情熱のことなんだろうか。たしかに、虚で満たされてる岡本太郎は何か違う気がする。しかりしかり。

 

5過去の遺産か今日の創造か

庭論のまとめ。庭は芸術を一義としていない、生活の裏側であり、なぐさめであったかもしれない。それでも現在を生きる人が、一義だろうが二義だろうが、今も生活に息づくものたちを芸術ではないとか切り捨てずに真剣に向き合って、感じ入るものがあればそれが受け継がれるべき伝統なのだ、と。

言っている、気がするけど合ってるかな…。

結局は良いとされる、日本的とされる伝統や文化と向き合う時に、向き合う人が、人の基準や知識や歴史じゃなくて、自分の感覚でどう受け止めるか、そして何を見出すか、を問われている。

かっこいいぜ、岡本太郎

 

五 伝統論の新しい展開

伝統が狭いんじゃない、むしろ伝統には国境も人種もなくて、ただ我々が今生きている現在が狭いんだ!という衝撃の転回。素敵。

美術館にいそいそと出かけて、カフカすごーって感動したって、私たちの目の前には、朝渋滞しながら眠たげに出勤して、お客さんの用件や日々の苦悩を聞き、狭くてあっつい車の中でお弁当を食べて、上司が上がり目下り目忙しいのを横目で見つつ、家に帰ったら父母の夫婦漫才を鑑賞してご飯食べて寝るだけの日々があるのだ。

痛感できる。現実が狭いのだと。そこにいかにエネルギーを圧縮して放出するかって話を…多分していると理解した。そうだといいな。そうなんだよねえ。やっぱり好きだ岡本太郎

 

所感

とはいえ私は芸術家ではなく、一介の会社員なんだけれども。脳内に長年吸収・蓄積しているさまざまな諸作品への情動は一生使うことはないのかなとか思ってたりもしたんだけど、なんか小さな小さなこの生活の中で、生かせる形に変えて、放出していくものなんだなと。それが一介の会社員なりの創造なんだろうなみたいな知見を得ました。岡本太郎は楽しい。