排除ベンチの話

こんな記事を見つける。

https://withnews.jp/article/f0210713003qq000000000000000W08k10201qq000023319A?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=link_back&utm_content=related

 

ベンチといえば、昔はのびのびと寝転がれたりできたけど、最近は気づいたら仕切りや手すりがついている。

 

街に出ると、お金払わなきゃ座ることもできないなあといつか私も思った覚えがある。

記事でも言っているように、そもそも勝手に座ってもいい場所がとても少ないのだろう。

 

お金にならないベンチを置く意味がない。とか、

善意で置いたらホームレスの人が寝てて苦情が来た。とか、せちがらいなあ。

 

街の中での居場所は、お金を払って確保するしかないのだろうか。

そこにいるホームレスの人に文句を言う権利が誰にあるのだろうか。(いやある時もあるけど)

かといって文句を言う人に文句を言う権利もまたない気がする。

 

公園で遊ぶ子どもたちに文句を言う大人がいる。

みんなに開かれているはずの公園には、気がついたら誰もいない。

みんなに開かれているから、けんかになるのだ。

思いやったり譲りあったりなんかできない。

みんな自分が少しでもいいところにいたくて、平気で他の人を排除する。

他の人を排除したくない人は、お金を払って居場所を確保する。

ちょっと話せばけんかなんて起こらないのに。

そのちょっとの手間を惜しむ人がいる。

大きい声で、ごまかして。

話してもわからない、なんて、わかってもらう前に諦めただけじゃないか、と思う。

そもそもこちらの話だけを聞いてもらおうなんて虫がよすぎで、こちらが話せば相手も話すんだ。

自分だけが正しいなんてごうまんだ。それは誰の正義だ。

 

けんかなんてしなくていい。

気持ちよく放っておけばいい。

お互いがお互いを、邪魔しないように放っておければいいのに。

正義感とか、義務感とか、誰のためなのか。どうでもいい。

気になったら自己満足の範疇で関わればいい。

誰かのためにやってるんだなんて思うようになったらおしまいだ。

 

ぜんぶ自己満足と自己責任の世界だ。

誰かのためなんて戯言は聞かない。

 

ベンチの話だった。

排除もごうまんだ。

人間に人間を排除する資格があるなんてどうやったら思えるんだろう。

いじめっこにはいじめっこの事情がある。

それは正義じゃなくて、いじめっこの事情とか都合でそう言ってるだけなんだ。

ただ声がおおきいだけ。

どれだけ声がおおきくても、それがまかり通ってても、別に正しいわけじゃないんだ。誰かにとって都合がいいだけなんだと思う。

だからそれが間違いだって思うのも、変えたいって思うのも、全部自由だと思うんだ。実現するかは別の話だけど、少なくとも正しくないと思うものを正しいと思う必要だけはないと思いたい。

 

だから、この世にある全てが正しくなくて、間違ってもないのだと時々言いたい。

大きい声で言う人がいて、なんにも聞こえてない人がいて、話し合いの末どこにも行きつけないことだってあるし、どちらかが諦めてしまうこともある。

そういうのぜんぶ、正しくもなければ間違ってもない。

結局それなりに、出した結果に納得できればいいんだと思う。

 

誰かはそんな簡単じゃないってため息ついて言うかもしれないけど、じゃあ私はどう簡単じゃないの?と聞きたい。

結果あーなるほどとか言って、次の日には言ってることが変わってるかもしれないけど、それでいい。

聞いてまだまだ知りたい。いろんな人を、いろんなことを。

 

排除ベンチは、話し合えない私たちの、話し合いを投げ出した私たちの、ひとつのかなしい到達点ではないだろうか。

排除ベンチを置いた人の事情も、排除ベンチに排除されたと感じた人の事情も、排除ベンチは嫌だと思う製作者の事情も、綺麗事も現実も、色々。

依頼した人が札束で製作者の頬を叩いた、ように見えなくもない。それくらい製作者寄りの記事だ。でもそうやって世の中が色々諦めながら、抵抗しながら回っているのもほんとう。

あー、たたかいたくねえなあ(連休最終日の声のちっさい会社員の声)。