小話(転講師)

企業向けマナー講座の講師から外されてしまった。

「君、精神科医の知り合いもいるらしいし、メンタルヘルス講座ならできるでしょ。君のマナー講座、評判悪いんだよ、なんか型にはまってないのがさ。」

上司は何も分かっていない。私の目指すマナー講座はひよっこたちを社会のくだらない型にはめるようなスタイルではないのだ。

形なんて二の次。相手を思いやる心があれば、型なんて気にしなくても自然と気持ちのいい応対ができる。実際講座を受講した人からは、『マナー講座ってもっと堅苦しい感じだと思ってたけど、意外と寛大でよかった』『いい応対ができるようになりたいです』など評判は悪くない。

上司が言っているのは、クライアントの評判だ。講座を仕掛ける側の年配のクライアントにとって、マナーは軍隊のように身体に覚え込ませるもの。私の講座はぬるいと言われる。

「そういうわけだから、さ。君の生徒への情熱も分かるけど、今回はクライアント第一で頼むよ。そろそろいい年なんだし、ちゃんと決めないと肩叩かれるかもね」

じゃ、僕は指導したからねっと、上司が席に戻っていく。くだらない。ほんとうにくだらない。けどあの上司もまた自分の上司に言われて動いているだけなのだ。ああ、つまらない。

それでも講義はやってくる。来るメンタルヘルス講座に備えて勉強しなくては。

それにしてもいつまでこんなことを言われ続けなければいけないのか。クビをちらつかせればいうことを聞くと思うのってどうかしてる。まあいうこと、聞くんだけどさ。

 

ここの会社は前、マナー講座の講師として来たっけ。…いいえ、今日の生徒たちの前でしょんぼりしているわけにはいかない。

若い女の子が通りかかった。そんなに大きな会社ではないから、あの子も今日私の講義を受けるのだろう。

「おはようございます。今日研修のある会場はこちらでよかったかしら?」

「はい!分かりにくいですよね。こちらです」

「ありがとう!」

ああ、いい対応。私のマナー講座、やっぱり効果あるんじゃないかな。ほんと、見る目ないな。

それにしても…メンタルヘルスという分野は掴みどころがない。模擬講義も頭に入れて来たし、例話もいろいろ用意してきた…けど、長年やってきたマナー講座に対して、これからやろうとする講座にはあまりに確信がない。講座30分前だというのに、これでいいという確信が持てないのだ。私は生徒たちに何を伝えたらいいんだろう。正直こんな得体の知れない講座からは逃げ出してしまいたい。

それでも長年培ってきたキャリアだ。幕が上がれば言葉は転がり始める。

「人の心の状態、辛さっていうのは、本質的にその人にしかわかりません。他人が好き勝手決めつけて言っていい世界ではないんです。その人の辛さはその人にしか分からない…」

そう、マナー講座を外されてここに立っている私の気持ちも、私以外には分からないのだ。

私だって今まで、好きで仕事も家事も育児も背負ってきたわけじゃない。誰も許してくれなかった。休ませてって会社に言っても、迷惑そうな顔で「みんな辛いんだから甘えるな」って。

「いいですか、メンタルを病むということは、会社やパワハラした人、その家族にもダメージを与えます。病む前に休まないといけません。」

脳裏に昔の上司の顔が浮かぶ。

『お前が病気して仕事休んだせいで、俺は降格になった。降格になったらヨメが息子連れて出ていっちまった。息子泣いてたよ。なあ、俺そんなに悪いことしたか?人生潰されるほど、ひどいことお前にしたかよ』

したよ滅亡しろよと思ったけど、泣いていたという子どものことはずっと引っかかっていた。

なんということだろう。散々ひどい目にあったはずなのに、どうして私が悪いことをしたような気持ちにならなくちゃいけないの。

そんな思いをこの子たちにさせてはいけない。

「いいですか、休むことは権利です。休みたいと言われたら休ませるように私、明日の講義で君たちの上司に言っておくからね。辛い時は休みなさい」

うん、これでいい。

嫌な経験もこうやって若い子たちの役に立つ時があるなら、悪くないのかもしれない。

「自分が病まないことはもちろんですが、周りを病ませない、というのも大切なことです。ちょっと元気がなさそうだったら声をかけるとか、そんなことで結構救われたりするものですよ」

そう、そうやって同僚たちと手に手を取って、隙あらばクビをちらつかせる上司と戦ったり、励ましあったりしてきたのだ。

あ、私この講座向いてるかも。うんうん、準備してる時は全然手応えなかったけど、このテーマ、今までの自分の経験を役立てられる。

「絶望しても、それが人生の肥やしになると思うことが大切です。うちの息子は嫁に浮気されて子どもまで連れていかれて、ほんとうに落ち込んでたんだけど、『まあこれで浮気された人の気持ちも分かるようになったよな。子どものためにできることはまだたくさんあるんだし。』って、私それ聞いて、ほんとうに偉いなあっ…て…」

いけない、泣けてきた。

あ、だめだ。生徒の顔が引きつってる。このエピソードは刺激が強かったみたい…。思わず情が入りすぎてしまった。

講義ももう終わる。新しい仕事は、意外と悪くない。二度あることは三度あるっていうし、この会社とはまた縁があるかもしれない。

「それでは、本日はありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

『先生の人生が波乱万丈すぎて、とても参考にできそうもありません。先生生きて!!』

後日届いたアンケートに、思わず笑ってしまった。

私は当然まだまだ生きますよ、あなたもね。